公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

東京雑感
楠見 武徳


 私こと,昨年(2008年)3月に徳島大学(薬学部)を定年退職したのち,同年10月より鈴木啓介教授がリーダーをつとめておられる東京工業大学グローバルCOEプログラム「新たな分子化学創発を目指す教育研究拠点」に所属させていただいております。このプロジェクトのコンセプトは「合成と分析の融合」であり,私は分析の立場から少しでも合成の方々に貢献したいと努力しています。

 鈴木教授のご厚意により毎週,鈴木・大森研究室の輪読会,報告会に同席させていただいております。中期認知症と過度のアルコール摂取で萎縮した私の脳味噌では,世界最高水準の有機合成研究室に飛び交う用語や,活発な討議についていけないことも多いのですが,それはそれで刺激的であり,鈴木教授や研究室の若い方々に助けていただきながら日々楽しく勉強しております。

 16年の間住み慣れた田園(田舎ではありません)都市・徳島から東京へ来てあらためて驚かされたのが東京の圧倒的な人の多さです。東京は何でこんなに人であふれているんでしょうか!品川や新宿などの大きな駅では,人の流れにうまく乗らないと他人とぶつかり,「よたよたするな,ジジー!」と舌打ちされるような気がして,ひたすら流れにさからわぬように我が身を操縦する術を身につけなくてはなりません。JR徳島駅では,阿波踊りの時でもなければ自分のペースを保ち心おだやかに歩けます。また,東京の大きな交差点ですと,夜でも数十名の大集団が信号待ちをしていますが,徳島では交差点にこんなにたくさんの人が集まっていると「今日って何かお祭りだったかな?」とか考えてしまいます。

 私は大岡山の東工大構内にある大学の宿舎(築45年)に住まわせていただいており,宿舎から大学の居室まで徒歩5分と,年寄りにとっては大変恵まれた環境におります。宿舎の周囲は構内にある「ひょうたん池」をかこむ小さな森で,朝は四季折々の野鳥の声で目を覚まします。年寄りは朝が早いので,天気がよい日は小一時間の散歩に出かけます。大岡山は高級住宅街ですが,田園調布辺りまで足をのばすと,さらに大きな森に囲まれたお屋敷が数多くあります。「誰の家かな?」と歩みをゆるめて見ていると,それはおそらく偉い政治家のお屋敷で,警護のお巡りさんが汚い身なりの不審な白髪老人をいぶかって,パトカーの中からじっとこちらを見つめているのに気がつき,必死に「怪しくない振り」をしながら退散したこともあります。やはり東京は日本の中心なんだな,とあらためて感じています。

 時々,朝夕のラッシュアワーに電車に乗ることがありますが,あのすさまじい車内の混雑ぶりを味わうと,毎日電車で通勤・通学している人達のご苦労に頭が下がります。片道1時間,ときには2時間以上,カバンの上げ下げもままならない状況で1個の積み荷と化し,時速100キロで移動できるわざを身につけている都会人は,それだけで尊敬に値すると思います。電車の中にいる時間を使って研究のアイデアを練ったり,人と人との間にできる小さな空間に科学雑誌をひろげて勉強したりしている人も多いと聞いています。それはそれですばらしいことと思いますが,都市への極端な人口集中については何らかの対策が必要であると考えてしまいます。都市の人口もマルコフニコフ則に従うのでしょうか?

 一方,東京の人波に身を置くことに慣れてくると「自分は多数派に所属している」という(いわれのない)安心感が生じてきます。大集団の中に居ると必然的に人の心に生まれてくる心理現象であると思われますが,この「多数派意識」はともすると危険で,気をつけないと「少数集団に対する軽視」につながりかねません。

 ふと考えると,東京の住民は全国の都市から集まって来た人の集団であり,東京を本流に例えれば地方は支流です。当然のことですが,本流の整備だけに気をとられていると支流は涸れてしまいます。学問分野でも全く同様であり,本流と思われる分野に過度にかたよった投資をすると,本流を支える小さな支流の分野が干上がってしまい,結果的に本流の勢いを弱めてしまいます。若い研究者が積極的に支流に参入し,目を見張るような清流を作り上げることができる環境作りが必要であると考えています。

(2009年7月28日受理)
ページ更新日
2011年10月24日