公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

アートとサイエンス
大川 滋紀


 「創薬はアートですね」とよく言われる。私自身も,優れた医薬品の研究開発について,多くの新しい発見や,巧みな発想と尋常ならぬ努力によって困難を克服した話を聞かせていただく度に,一幅の絵画や心の琴線に触れる音楽を味わったときのような感動を覚える。これまでの治療パラダイムを大きく変えるような医薬品においては,その発想とドラッグデザイン,薬効評価,プロセス化学,製剤設計から臨床開発に至るまで緻密で高度なサイエンスに基づいたアプローチがなされているのだが,それだけでは説明できない研究者の情熱や感性が感じられるのである。

 創薬研究では,様々な機能を担う研究者の協業が非常に重要である。中でも創薬化学に携わる合成研究者,すなわちメディシナルケミストの果たす役割は大きい。創薬標的が化学的にみて実現可能かを見極め,化合物ライブラリーから見出したヒット化合物や内因性リガンド・文献情報から薬となりうるリード化合物を創出し,最適化研究により臨床候補品に仕上げていく。その過程では化合物に関連する膨大な情報から次のステップに繋がる情報を抽出して,独自の化合物デザインに活かしていくことが求められる。いわば,メディシナルケミストは,自ら生み出した化合物を通して創薬のすべての機能を見渡しているのである。

 メディシナルケミストが良い研究をするには,二つの要素が必要となる。一つ目は,言うまでもなく合成実験を基本とした専門性の追求である。最近は合成化学でも応用面が強調され,効率よく結果を得ることが求められることから,できるだけ少量の化合物を合成し,HPLC精製して濃縮乾固という流れが一般的になってきている。優れたドラッグデザインを行うには,物性と構造の関係を経験から理解することが基礎となるが,自分が合成した化合物の再結晶すらしない研究者がどこまでそのことを理解できるのであろうか。また,創薬合成の分業化により,一連の創薬プロセスを個人が通して経験することが少なくなった。代謝物やRI標識体の合成法を確立することは,生体内での化合物の運命を知り,化学反応との類似性と相違について考えることに繋がる。比較的大量の合成を経験することで,少量合成ではわからなかった副生成物・分解物の情報や結晶形・結晶化度の違いなどから反応や化合物への理解が深まる。このような創薬プロセスを首尾よくこなすには,緻密な観察眼と技術の裏付けが必要である。日頃から鍛錬をつんだ人が道具を使うときには,その人の神経が道具の中に伸びていく感覚があるという。各界の匠に至っては,道具を持った瞬間にその神経と自分の神経回路が繋がり,自らの手足のように道具を使いこなす。創薬研究においても,知識だけではなく実験操作にも精通し,自分の神経回路を伸ばしておく必要がある。研究において最も重要である新たな発見は,“Chance favors the prepared mind.”というPasteurの教えのように,このような準備があって初めてもたらされるのだと思う。

 二つ目は道草の勧めである。専門性はコアの部分であるが,道草によって得られる知識や経験はそれを応用するための拡がりの部分である。メディシナルケミストは合成だけに責任を持つのではない。創薬に関連する様々な学問,さらに医療ニーズや規制当局の要求基準などを学び,自らの研究に活かすことが求められる。例えば,自分の合成した化合物がどのような評価系にかけられ,どのようなプロセスを経て開発されていくのか,強い好奇心を持って見届けてほしい。膨大な情報の洪水から本質を見極めるには,専門と道草の双方の経験から得られる感性がものを言う。

 サイエンスの進歩には日々,目を見張るものがあるが,医薬品を世に送り出すにはそれだけでは不十分である。高度なサイエンスを基盤としながらも,極めて属人的な感性と情熱が鍵となり創薬はゴールまでたどり着く。アートもいずれはサイエンスによって解き明かされるのであろうが,当面は研ぎ澄まされた感性を有するメディシナルケミストが情熱を持って研究を進め,アートの世界に足を踏み入れることを期待する。

(2009年1月26日受理)
ページ更新日
2011年10月24日