公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

ミスマッチ
馬場 章夫


 大学と社会との間に大きなミスマッチがあるという声を聞くことが多くなった。大学のミッションに社会貢献という項目がことさらのように加わり,さらに,近頃は研究だけでなく教育もプロジェクト化しているのもミスマッチ論議を加速している要因であろう。一種の,はやり病のようには感じるが,看過できない状況になっている。

 ミスマッチには学生の問題と研究内容の問題とがあるが,おもに前者に集中している。最近の新入社員は基礎力が低くて戦力にならない,大学は社会ですぐに役立つ人材を育成していないと指弾されている。オーバードクター問題はその顕著な例としても宣伝されているが,身の周りには博士後期課程修了者が企業への就職に苦労している例は皆無に近く,有機合成の分野ではこの指摘は当たらない。昔から話題として俎上にあがることはあったが,産学間のミスマッチは当然のこととして,あまり深刻な話題にはならなかった。少なくともマスコミや政府が大々的に取り上げるような社会問題ではなかった。私事になるが,企業の入社面接で大学ではしっかりと好きな勉強をしておけば良いと言われた記憶がある。これは博士後期課程の1年次のときの話である。オイルショックのころで今以上に不景気であったはずである。博士号取得後に入社し,5年半で大学に移ってしまったので,その後の企業を知らないが,今の学生たちが企業に入って本当に大きな悲劇に見舞われているのであろうか。私も,会社ではまったく異なった仕事に就き,ミスマッチどころではない別世界に入ったと実感したが,皆が何とかこなしていた。大学での研究や知識がそのまま企業で通用しない状況は今も同じであろう。企業で必要とされる研究レベルやスタッフのレベルは大学よりも遥かに総合的で高いはずである。いま声高に言われているミスマッチの内容は,もう一度精査する必要がある。

 いっぽうで,ミスマッチが許されないような社会になっているとすれば,いろいろな意味で恐怖を感じる。杞憂であればいいのだが。  有機化学分野では,特に博士後期課程の学生に関して注意をはらっておきたい。現在,合成化学分野では博士後期課程修了者の企業への就職は,しっかりと定着しているが,さらに日本の化学力を向上させるためには,より多くの優秀な博士を輩出する責務が大学にあり,企業にはそれを受け入れる責務がある。最近,博士課程に進学する学生が減少傾向にあることを実感しており,輩出と受け入れとのミスマッチについては,大学と企業が常に意識して改善していく必要がある。ただ博士の問題は分野によって大きく異なっている。有機合成化学分野では,少し留意して努力を続ければ問題は解決すると信じている。いま,気になっているのは,企業から大学に移った時に感じた,「自由で何事にも集中できる充実感」が変質していることと,教員と学生との接触時間の激減したことである。この妙な時間の無さは,授業などの教育にも表れはじめているのではないだろうか。私自身が最も自覚していることだが,特に教授がキャンパス(研究室)にいない現状には,いずれ大学の基本が崩壊しそうな恐怖を覚えざるをえない。学部や研究科では人材育成が根幹のミッションであり,研究や産学連携はその手段であったはずである。この点を取り違えると,大学が社会の下請けになってしまい,尊敬される存在ではなくなるのではないか。私のいる大学でも人件費を含んだ総予算は1,000億円を少し超える程度である。しかも,これは文理を問わずにあらゆる分野を網羅した金額であり,化学分野だけで比較すれば企業と大学の研究資金力には天と地ほどの差がある。たとえば実用化研究で企業に勝利することなどあり得なく,大学が勝利するかもしれないのは人材育成力だけである。大学と企業は完全に異質のものであり,もう一度原点を見つめなおす必要がある。何かで本当の教育は面授による以外は不可能だと聞いたが,ミスマッチなぞにとらわれずに,学生と日々議論しながら興味を持った研究に集中できる環境を作ることが,求められている。歯をくいしばる時期なのかもしれない。幸いに,有機合成化学協会には化学を楽しむ空気が色濃く漂よっており,その原動力になると希望を感じている。

(2009年4月27日受理)
ページ更新日
2011年10月24日