公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

有機合成化学の威力
世永 雅弘


 化学反応は,物質合成のみならず地球環境や生命活動においても根幹をなす重要な事象である。その中で有機合成化学には,天然物全合成を通した化学的新発見,新規生理活性物質の創出や供給という重要な任務を今後ますます果たしていくことが求められている。

 私は,大学院修了後,1982年から3年間ハーバード大学岸義人先生の研究室で博士研究員として,最先端の有機合成化学に触れる機会を得ることができた。その後,エーザイ株式会社に入社し,以来,創薬研究に携わってきた。この間,有機合成化学の威力に強いインパクトを受ける出来事があった。

 ひとつは,パリトキシンの絶対構造決定と全合成である。パリトキシンはスナギンチャク科Palythoa属のサンゴから単離された猛毒の主成分で,分子量2678.5,不斉中心64,幾何異性を生ずる7つの2重結合を有する,他に類を見ない構造の天然物である。パリトキシンの絶対構造決定に関しては,当時,ハワイ大学グループが主に高分解能NMR解析法を用いて行っていたが,結果としてNMR解析による推定絶対構造には間違いがあり,ハーバード大学の岸義人先生の有機合成手法に裏打ちされた証拠に基づく絶対構造が正しいことが示され,有機合成化学の威力が証明された。しかも,平面構造が報告されてから2年以内の1982年に絶対構造を決定し,1989年にはパリトキシンカルボン酸およびそのアミド体の全合成を完了している。

 もうひとつは,海洋天然物ハリコンドリンBからの抗がん剤創薬研究である。ハリコンドリンBは,海綿動物の一種クロイソカイメンから単離された強力な細胞毒性を有するポリエーテルマクロライドである。ハリコンドリンBからメディシナルケミストリーの展開がなされ,抗がん剤臨床研究候補化合物としての最適化が実現し,続くプロセスケミストリーの力により,不斉中心19を有する類い稀な構造の医薬品候補化合物 eribulinを,全工程数62で完全合成品として臨床試験の場へ供与することが可能となった。この一見不可能な事を可能とする事例は,岸義人先生の1992年ハリコンドリンBの全合成達成によってもたらされた革新的有機合成化学の知の賜である。

 このように創薬においては,新たな化合物創出を行う最先端合成技能とそれを臨床研究まで進める経済性,および環境調和を追求するプロセスケミストリーの2つの側面で,有機合成化学の革新技術が実践応用されている。これは有機合成化学が,いわゆる創薬の根源である“患者さんにお届けする新薬(entity)の創出”を担っている実例であり,まさにその威力が発揮された出来事である。

 創薬は,高付加価値で学際的かつ知識集約・知識創造型産業であり,日本経済を牽引し,世界の医療ニーズに応える極めて重要な産業である。事実,世界の医薬品売上ランキングで上位の約2割は日本オリジンの化合物であり,日本の新薬開発力は米国・英国に次ぐ世界第3位である。なお,1990年代からの創薬技術革新(ハイスループットスクリーニング,コンビナトリアルケミストリー,CADD,SBDD,Omics技術等)にかかわらず,世界的に新薬の成功確率が向上していないとの指摘がなされている。一方で,医薬品となり得る理論上の候補化合物数は無限に近いと言われている。このことは,創薬の根源であるentity創出を担っている有機合成化学の腕の発揮どころであるととらえることができる。

 有機合成化学の真髄は,ターゲット化合物の合成戦略をたて,実際の実験による生成物という形で自らの手で戦術を検証することである。そのプロセスにおける新たな化学的発見そしてその革新技術を,人類の生命と健康・福祉を守る創薬に活用し,社会還元を実現・貢献することは,今後有機合成化学が発展していく中のひとつのあり方である。

(2010年9月7日受理)
ページ更新日
2011年10月25日