公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

“0”の地平
武田 猛


 有機合成化学協会は1992年に創立50周年を迎え,協会誌の特集号が12月に刊行された。当時本誌編集委員であった私は,「有機合成化学の現状と展望」と題する若手の先生方による座談会を担当した。この座談会の打ち合わせを兼ねた雑談のなかで,「これから有機合成化学者が合成化学を“tool”としてライフサイエンスなど周辺領域に進出することによって,結果的に有機合成化学それ自体は空洞化するのではないか」という話題が出た。さすがにこれは特集号の話題として如何かということになり,座談会でとりあげられることはなかった。Nature のconsultant editorであるP. Ball が“What Chemists want to know”という記事の冒頭で,「化学はすべての科学の領域で重要な要素であるが,それは化学が便利な道具(handy tool)以上のものではないことを意味しているのではないのか」と述べ,成熟した学問である化学が周辺領域に吸収される可能性を指摘して注目を集めたのは2006年である。しかしこれは,少なくとも有機合成化学の分野では20年近く前からうすうす危惧されていたことなのである。近年,本誌でもライフサイエンスばかりでなく,有機電子材料など「周辺領域」に係る論文数が増大している。これは有機合成化学を専攻する学生諸君の活躍の場が広がっていることを示しているという点では,歓迎すべき変化であることは言うまでもない。しかしその反面,有機合成化学が“handy tool”として評価されていることの反映とも考えられ,やや心配でもある。

 「化学の成熟」に関連して思い起こすのは高校の化学教科書である。学習指導要領の改訂に伴う教科書の編集に二度携わったが,その際に,「指導要領が改訂されるたびに,生物の教科書の内容は変わるが,化学の教科書は項目を入れ替えるだけで実質的にはほとんど変わらない」,という趣旨の話をしばしば耳にした。専門外のことではあるが,確かに化学を取り巻く領域にはホットな話題が多いようである。たとえば,1970年代の遺伝子工学の発展に端を発したバイオテクノロジーの展開とそれを基にした山中伸弥教授によるiPS細胞の開発などと対比すると,いかにも化学が成熟した分野であるような印象を与えていると感じるのは私だけではあるまい。

 ところで,H. O. House の“Modern Synthetic Reactions”は有機合成化学の分野における名著であり,大学院生当時の私にとってはまさに“Bible”であった。この本が刊行された1972年から今日までの間に,確かに有機合成化学は立体化学制御の方法論を中心に大いに発展した。特に,近年有機金属化合物を利用する有機合成反応の開発は目覚ましく,不斉合成への展開を含め,遷移金属錯体を触媒とする高選択的・高効率的な反応の進展は有機合成プロセスを一変した。だがしかし,50周年の本誌冒頭での吉田善一先生のご指摘である「高選択性発現のコンセプトは出つくしており,精密有機合成とはいうものの選択性,収率ともに生体系を超えるものはない」,もまた20年近くを経た現在,まさに正鵠を得ていたように思われる。実際有機金属化合物を活用するOMCOS的アプローチが,今後さらに有機合成プロセスを革新するかには疑念を持つ研究者も少なくない。現在金属錯体触媒に替わる有機分子触媒の研究が活発化しているのも,OMCOS的アプローチに対するアンチテーゼであるのかもしれない。

 私の恩師である向山光昭先生には「流行を追う浮草のような研究ではなく,地に根を下した研究」を,そして「だれかが見つけた“1”を“2”に,“2”を“3”にする改良研究ではなく,“0”を“1”にする創造的な研究」をしなければならないことをご教示いただいた。この教えに沿うよう努力してきたつもりではあるが,実は30年前に独自に研究を始めるのにあたって“0”の地平をどこに求めるかを,さらに真剣に考えることが大事なことではなかったかと,今考えている。これから研究生活をスタートされようとする若い研究者の方々には,科学の階層構造のいま少し深いところに“0”の地平を求めることによって,有機合成化学の新たなパラダイムを開いていただきたいと切に願っている。

(2009年11月17日受理)
ページ更新日
2011年10月25日