公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

天然物有機化学の過去から未来
大村 智


 有機合成化学協会誌の特集号として,現在の我が国の天然物有機化学の粋が編纂されることとなり,誠にご同慶の至りである。 我が国の天然物有機化学の発展の歴史は,1800年代後半から1900年代初頭にドイツやイギリスの化学者から学ぶことに始まり,現在では先端の国々と伍するまでに発展し,今やそれらの国を凌ぐともいわれるまでになっている。

 明治維新後のまだ世相の安定していない1871年(明治4年),長井長義(1845-1929年)は新政府の命を受け,ベルリン大学のJ.リービッヒの高弟であるW.ホフマンの下に留学した。13年間の研鑽を終え,1884年に帰国。翌年には生薬麻黄からエフェドリンの単離,合成,構造決定を行うなど,数多くの研究業績を上げた。一方では,東京化学会会長,日本薬学会初代会頭(終身)を歴任し,我が国の有機化学,薬学研究の基盤を作った。眞島利行(1874-1962年)は,1907年にスイス・チューリッヒの錯体化学で有名なA.ウェルナー(1913年ノーベル化学賞受賞),ドイツのC. D.ハリエス(1902年ノーベル化学賞を受賞したH. E.フィッシャーの弟子),スイスのR. M.ヴィルシュテッター(1915年ノーベル化学賞受賞)の下で研鑽し,4年後に帰国。東北帝国大学教授に就任し,漆(JAPAN)の主成分ウルシオールの研究などで優れた業績を上げた。同時に,大阪大学総長などの要職を歴任し,有機化学の発展に尽くした。門下生には,女性初の学士化学者黒田チカを始め,赤堀四郎(大阪大学総長),杉野目晴貞(北海道大学学長),小竹無二雄,野副鉄男,藤瀬新一郎,星野敏雄,村上増雄,村橋俊介,久保田尚志などの有機化学の発展に大きく貢献した煌星の如く輝いている人々がいる。これらの門下生たちの流れをくむ有機化学者らが,現在の我が国の有機化学,天然物有機化学領域を席捲していることからも,眞島利行をして日本の有機化学の開祖ともいわしめる所以である。

 農芸化学分野に目を移すと必ず挙げられるのが,鈴木梅太郎である。彼は東京帝国大学卒業後に同大学助教授に就任。翌年(1901年),ベルリン大学のH. E.フィシャー教授の下で研鑽し,1906年に帰国後オリザニン(ビタミンB)の抽出に成功した。日本農芸化学会を創立して初代会長となり,同学会の発展の礎を築いた。

天然物有機化学分野初期の研究対象は,前述の長井長義の生薬・麻黄成分,眞島利行の漆の成分に加え,田原良純のフグ毒,鈴木梅太郎の糠成分オリザニン,朝比奈泰彦の漢方薬成分など,我が国独特の自然や文化に根差して着想したものが多い。後進の国力の中,独自性を出しながら,世界のレベルに追い着き追い越せの気迫を感じる。それは,後発の日本の有機化学が特色を発揮するためには賢察であったと思われる。

 近年,有機化学,とりわけ天然物有機化学は農水産学,医薬,薬学などとの連携の下で発達した抗生物質や海洋生物の代謝産物の研究で,多くの国際的にも優れた研究がなされるようになった。これらの研究の流れが質量ともに一気に世界的レベルに達するまでになった要因として,他の国には見ることのできない,天然物有機化学関連学会関係者が一堂に会して研究成果を競う「天然有機化合物討論会」の開催を挙げることができる。第1回は,1957年10月に名古屋大学で開かれ,19題の発表があった。その顔ぶれを見ると,小竹無二雄,後藤格次,津田恭介,藤瀬新一郎,久保田尚志,平田義正,柴田承二,それにこの会の設立に尽力された中西香爾といった方々であり,本討論会のあり方の範を示された。この討論会は今年で52回目を迎えるが,これまでに有機合成化学協会会員諸兄も多く参画し,天然物有機化学の発展に大きな役割を果たしている。

 いかなる複雑な天然物でも全合成が可能となったといわれている今日,「天然物有機化学の将来はどうなるだろう」という問いかけがある。しかし,新しい合成方法の開発は目的とする物質の合成を容易にし,医薬品などの実用化に役立つ。今までの研究では先ず天然有機化合物を得て,活性を調べ,その構造を決定し,不斉合成するといった研究が進められてきた。最近では天然物の活性に着目し,複雑な構造のうち活性に必要な部分だけを合成して,医薬品とする研究もある。例えとして,岸義人らのハリコンドリンBから発想して,その主体となる活性部位を得て抗がん剤エリブリンの開発へと導いた研究は,今後の天然物有機化学の研究方向として興味がある。この研究は天然物の活性部位のみの合成とはいえ,確たる合成技術があって初めて可能となることを教えてくれる。このような方法で,実用化を目指す研究の対象となりうる,多量に取得することが困難な多くの天然物が待っている。加えて,環境を考慮したグリーンケミストリーなどのように,有機合成化学の今後の発展が期待される事柄は,枚挙にいとまがない。

 化学は,研究対象を作り出すことができる点で他の自然科学と異なるところではあるが,自然から学ぶことの多いことを忘れてはならない。医薬品の生体内での挙動の本質など,生体の機能にどのように関わっていくのか,ほとんどが表面的な事柄しか解っていない。また,生体の中で諸々の有機化合物がいかに関わり合い,生体機能を維持しているかを知ることなどは,天然物有機化学の領域で取り上げてもよい興味ある課題である。これらを解明するためのプローブやそのアフィニティーラベリングなどに向けた合成技術は,生体の機能解明のための基本となるものである。

 《歴史を学ぶと未来が見えてくる》ということが,私の持論である。幕末の思想家・横井小楠(1809-1869年)は,『知識や技術は明確な倫理を伴ったときに初めて,本来の効果を発揮する』と言っている。競争的研究資金獲得が奨励されている昨今,この言葉の重さを思い出しながら稿を終える。

(2010年2月4日受理)
ページ更新日
2011年10月25日