公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

研究の展開―足元を深く掘り下げるか,遠くを見るか
楠本 正一


 有機合成化学は,実際にモノを提供できるというその特質ゆえに,幅広い科学・技術の基礎を支える大きな役割を担ってきた。合成とひと口に言っても,その対象も狙いも極めて多様であるが,私が関わってきたのはその中心からは少し外れたペプチドや糖などの脱水縮合による合成の世界であった。学生として最初にペプチド化学に関わった当時はまだ液相反応の時代で,ラセミ化を避ける縮合反応や保護基の研究が花盛りの中,ちょうどMerrifieldによる固相合成の最初の論文が出た頃であった。その後のこの固相合成法の発達,HPLCによる精製,自動合成機の出現に至って,難しくないペプチドであれば専門家でなくとも合成できるようになった。そうなると「如何に合成するか」よりも,「合成したもので何をするか」という観点の評価が優勢になってしまう。大きなペプチド,タンパク質については,化学合成は遺伝子工学的手法に大きく水をあけられた感もあった。私はその間に糖質化学に研究の中心を移したが,そこではグリコシル化の立体制御,縮合収率,水酸基の選択保護など未解決の問題がまだ多く残っていて,化学者の出番は多いと感じられた。しかし,ここでも糖鎖や糖脂質に興味を持つ研究者が増えるとともに,それらの問題も次第に解決され,最近では糖鎖の固相合成も実現しつつある。合成技術の完成度にはまだ差があるものの,糖質の合成にもペプチドと似たような状況が訪れつつある。

  研究者が頑張って目前の問題を解決するうちに,成果は技術的進歩としてだけ捉えられるようになるのではさびしい。しかし,私たちが関わる化学の世界では決して技術が陳腐化して終わるのではなく,誰もが独自の展開の場を見出し得るように思う。その時点の問題を深く考えて,それに取り組んで生み出した一つのきっかけが,分野の情勢を大きく変えることもあるからである。最近のペプチ合成に目を向けると,チオエステルの性質をうまく利用したケミカルライゲーション法の出現によって,長鎖ペプチド同士を効率よく縮合できるようになり,合成できる最終生成物の残基数が大きくなった。その上に遺伝子的手法では難しいリン酸化,硫酸化,グリコシル化などの翻訳後,修飾ペプチドの合成にも専門家なら対応できるようになって,化学合成が再び勢力を盛り返している。

  どの分野でも研究が進むほど研究者が日々に向き合うのはごく限られた現象になりがちである。それだからこそ,特に若い研究者は目前の具体的な問題の解決に達成感を感じるだけでなく,自ら意識してその研究のもつ意味を理解し,日常的に広い視野をもつ姿勢,異分野との接触に対する積極性を身につけて欲しい。それが将来,自分で研究を展開する時のアイデアの幅につながるからである。現在進行しているある大学のグローバルCOEプログラムでは,まさにそのような視点から「合成と解析の統合」を謳って元来の専門とは異なる分野の考え方に触れさせる教育を行って成果を挙げている。そのような環境を経験した大学院生の将来の成長が楽しみである。

  異分野との接触の大事さはもちろん若者に限らない。専門分野で問題を抱え,あるいは求めている研究者が,異分野の情報や異なる考え方と接したときに,大きな展開や新分野を開くきっかけが生まれる場合が多い。細分化した知識の総合化の効果である。

  宮本武蔵の「五輪の書」に,勝負における「観見の目付け(かんけんのめつけ)」ということが説かれている。ごく簡単に言えば「相手の目先の動きだけにとらわれずに,その全体像を捉えることが大事である」という意味である。言うまでもなく捉えただけでは駄目で,どんな動きにも対応できる自分の剣の速さがあって初めて勝負に勝てたのだろう。いささか無理なこじ付けだが,化学の世界にこれを当てはめてみると,目先の狭い分野にとらわれず,広い視野でものを見ると同時に,新しい問題を見つけたときに,そこから独自の研究を展開するためには誰にも負けない合成や構造研究の力を,普段から備えておくことが大事だということになるのだろうか。

  化学合成があって初めて可能になるような,化学者が発言力を持てるような新しい境界領域の研究が数多く生まれることを期待したい。

(2010年4月12日受理)
ページ更新日
2011年10月24日