公益社団法人有機合成化学協会 SSOCJ - The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

豊かな明日を創る有機合成

巻頭言

作ることは楽しい
森 謙治


 私は76才です。今も週に2日,自分の手で試薬を注入して反応させ,分液ロートを振って後処理してフェロモンを作っています。また少なくとも週1日は,スフィンゴ糖脂質の合成を議論しています。私が生物に作用する化合物を作り始めて50年余りたちますが,作ることの面白さは不変です。自然の理法にかなう方法であれば,求める物は出来ます。彫刻家が大理石の塊から美しい像を彫り出すように,私たち合成屋は簡単なものから複雑なものを作り上げます。

 生命科学分野でも材料科学分野でも,化合物が作られるとその機能が評価されます。そして時には,とても面白いことが見つかります。昨年,私はアメリカの人に頼まれて4,8-ジメチルデカナールというフェロモンの4種の立体異性体を作りました。日本にはすぐれた合成技術だけではなく,すぐれた分析技術があります。生物学者と分析化学者と私との協力で,天然フェロモンは単一の立体異性体ではなく,(4R,8R):(4R,8S):(4S,8R):(4S,8S)=約4:4:1:1 の混合物であることと,この比の立体異性体混合物が最強のフェロモン活性を示すことがわかりました。こんな予想もしなかったことが見つかるから,作ることは楽しいのです。スフィンゴ糖脂質の合成では,医学者たちによって強い免疫増強活性を示す化合物が見つけられました。一人で作ろうがグループ研究で作ろうが,作る人がいなくては新しいことは何もみつからないのです。

 うまい作り方は,まわりの人に美を感じさせます。私は最近,P. S. Baran たちのcortistatin A の合成の詳しい報文〔J. Am. Chem. Soc., 133, 8014(2011)〕を読んで,美しいと思いました。欲しい物をまとまった量入手するためには,自然の理法にかなった美しい方法を考えなくてはなりません。考えること,技をみがいて努力すること,そして出来るまで忍耐することで,はじめて合成は楽しくなります。楽しいと,一人だけでもやろうという勇気がわきます。美を感じさせる合成をやるためには修練が必要だと思ったのは25年前にバルセローナでピカソの若い頃(青の時代)の画を見た時でした。幼少年時代の彼の模写やデッサンはすばらしいものです。高度な技術をみがいた上ではじめて,彼は独自の美を作ったのです。

 私は自分で実験するために,遠くにある企業の研究所に通っています。都心から郊外に行くので,電車では座れますから本が読めます。今までの人生であまり読めなかった永井荷風や太宰治や大江健三郎や村上春樹を読み,またセルバンテスやドストイェフスキーやディケンズやプルーストを読み人生を考えます。後期高齢者の一人である私には長い過去と,“Memento mori.”(死を覚えよ)という短い未来があります。考えてみると,60才で東京大学を定年退職してから今まで,東京理科大学,冨士フレーバー(株),生化学工業(株),理化学研究所,東洋合成工業(株)と,私が化学を続けられたのは,皆まわりの人たちのお陰だということがわかります。他の人たちのお世話になっている自分を知るとき,私もさらに他の人のお世話をしなくてはいけないと思います。そして「このフェロモンを作ってくれ」と頼まれるとつい引き受けてしまうのです。ところが引き受けることが,先述の4,8-ジメチルデカナールの例のように新しい喜びを生み出します。人生は自分と他者との交わりの場であり,「自分がえらい」と思うだけで何とかなるわけではないですね。

 おしまいに,最近読んだ「少年少女」(アナトール・フランス著)の一節を引用します(岩波文庫赤855,p.39)。三好達治の美しい訳文です。「大人の馬は,人生のあらゆる道を気ちがいのように馳けています。あるものは名誉心にむかって,あるものは快楽にむかって。そうして多くのものは断崖に躍りこんで乗り手の腰を砕いてしまう。私は祈ります。やがて君が大人になったら,いつも君を導いてまっすぐな道を進んでゆく二頭の馬に乗りたまえ。その一頭は元気のいい,その一頭はしとやかな,いずれ劣らぬ立派な馬です。一頭の名は勇気,一頭の名は親切。」

(2011年5月31日受理)
ページ更新日
2011年10月25日