イベント - 協会本部 –
シニア懇話会「第26回ゆうごう会」(大阪開催)【開催報告】 終了しました
- 日時
- 平成30年12月13日(木)14:30~18:30【終了しました】
- 場所
- 大阪駅前第一ビル地下1階、「キングオブキングス」 TEL:06-6345-3100
[交 通]JR大阪駅徒歩5分、地下鉄四ツ橋線・終点『西梅田駅』より徒歩2分
- 主催
- 有機合成化学協会
報告記
日時:平成30年12月13日(木) 参加者数:名古屋、東京からの人を含めて23名
関西では平成最後となる第26回「ゆうごう会」が大阪で開催された。大阪で開催されるのはこれが8回目である。振り返れば、平成30年は今年の漢字「災」に象徴されるように、全国各地で相次いで大きな災害に見舞われた。関西でも大阪北部地震(6月)や台風21号(9月)などにより大きな被害が出たが、一方で京都大学の本庶佑先生がノーベル医学生理学賞を受賞されるという快挙で締めくくられた1年でもあった。
今回の「ゆうごう会」では鈴木仁美先生、下坂雅俊先生のお二人のお話を伺った。両先生の演題は奇しくも「小話」であったが、お二人の若かりし頃(?)の逸話が多く紹介され、23名の参加者が興味深く熱心に聴き入った。総合司会は奥彬先生が務められ、講演終了後の懇親会/討論会は薗頭健吉先生の乾杯のご発声で始まり、松本和男氏の軽妙な司会による和気藹々とした雰囲気の中で進められ、時間の経つのを忘れるくらいであった。ご講演の概略は次のとおりである。
「大学の片隅で経験したゆうごう会でしか話せない小話」
(京都大学名誉教授)鈴木 仁美先生
鈴木先生の「小話」は、少年時代から現在に至るまでのご経験を盛り込んだ内容の濃いお話であった。
先生は京都府の宮津市で生まれ、戦時教育模範校に指定された宮津国民学校で学ばれた。当時校長は大隊長、担任は中隊長と呼ばれ、級長の鈴木先生は小隊長と呼ばれたらしい。宮津市は古くは北前船の寄港地として遊郭が栄えた町であったが、戦時中は舞鶴鎮守府下の要塞地帯であったため、百数十機の艦載機による猛烈な空襲を受け、機銃掃射を浴びるなど、鈴木先生も大変厳しい経験をされたという。戦後は物資不足のため、町内共用の平たい鉄鍋を利用して各家が海水を煮詰めて自家用の食塩を作っていたが、その造塩プロセスが鈴木先生の化学への興味を最初に引き出したらしい。進学先として決まっていた東大の文科を蹴って、最終的に京大理学部化学科に進むと決められたのも、このあたりの経験が多分に作用したようだ。
大学院生のとき「Jacobsen転移」の研究テーマを与えられたが、高温反応で生成する多量のタールで汚れた実験器具を洗浄するため毎日素手でベンゼンを扱い、分留管に巻き付けた石綿布から舞い上がる石綿の埃の中で実験されたという。現代の若い人たちには考えられない劣悪な環境の中で実験されていたわけだが、多かれ少なかれ似たような経験を持つ「ゆうごう会」参加者にとっては逆に懐かしい思い出話でもあった。
京大助手の時代にRamsay Memorial Fellowshipでロンドン大学に留学し、高名なIngoldグループに参加してナフタレンの塩素付加反応を担当した。その研究過程で”ipso”という新しい化学用語を思いつき提案したが無視され、後に全く別のグループによってこの言葉が化学界に広められるという悔しい思いをされたそうだ。新しい知見が得られたら早く公表することの大切さは、今も昔も変わらない。
その後鈴木先生は広島大学助教授、愛媛大学教授を務められたが、この当時は予算不足のため研究費捻出には特に大変なご苦労があったようだ。京大を含めて大学間あるいは学部間でも予算的には大きな格差があったらしい。極端に言えば、当時弱かった広島カープと読売巨人軍との選手間の待遇の違いのようだったとか。そのため、この当時は器機購入にあたって業者との癒着が生じやすく、文部省官僚の汚職が摘発されたり、各地の大学で逮捕者が出たりもした。鈴木先生も地検特捜部に出頭して厳しい尋問を受けたこともあったそうだ。
1989年には京都大学理学部教授として戻られ、2001年には関西学院大学理工学部教授として、数々の研究業績を残され多くの人材を育てられたことは記憶に新しい。研究に関してはあまり語られなかったが、先生が京大時代に開発した硝酸を使わない京大法ニトロ化について紹介があった。この方法は環境汚染低減に役立つと考えられ、日本を始め中国、ロシア、北欧諸国などで注目を集めたものの、工業的な一般的ニトロ化法はすでに確立されていたので、タイミングとコスト競争力という壁に阻まれ、応用実績はほんの一部に限られているとか。新しい化学反応を開発しても、それを工業的に利用するためには多くの関門があり、それを克服するためのプロセス化学の重要性を再認識した。
留学先を含めると5大学で経験された「小話」はそれぞれが大変面白い内容で、フロアからは鈴木先生にまつわる話題提供もいくつかあったが、タイトルが「ゆうごう会でしか話せない」であることも勘案し、詳細は割愛させていただいた。最後に、京大のご自分の講座を閉じるにあたって有機系講座の終戦処理を行ったが、終わってみれば「骨折り損の、くたびれ儲け」だったと言われた。ただし、部外者である筆者にはよく理解できなかったことをお断りしておきたい。
「化学系企業に奉職して―化学を楽しんだ小話」
(元日本合成化学(株)社長/元三菱化学(株)常務取締役) 下坂 雅俊先生
下坂先生は京都大学工学部を1961年にご卒業になると、石油化学に憧れ、日本の産業復興の情熱に燃えて三菱化学に入社された。四日市工場に配属され、ホルマリン製造やポリアセタールの開発研究に携わった後、本社企画部を経てようやく憧れの石化事業部に配属となったのは入社後6年目のことだった。
下坂先生の大車輪のご活躍はこれから始まるが、塩ビ、アセトアルデヒド、酢酸ビニル、αオレフィンなどの生産体制、特にエチレンの30万トン生産体制を確立された。しかし一方では、コスト計算を間違った責任をとって辞表を提出したという苦い経験もされた。30万トンのエチレンの消化策として高級アルコール(生分解性洗剤原料)の事業化を行ったが、この分野は時期尚早だったこともあってあまり売れず、低稼働率のプラントを抱えて大赤字を出した。この責任をとって商品研究所への転勤を命じられ(入社13年目)、マスからファインケミカルの道へ進むことになったが、この失敗により応用研究の重要性を強く認識された。そのため商品研究所では洗剤のフォーミュレーションを研究し、神戸灘生協向け高級アルコール洗剤(粉末洗剤)の事業化に成功した。ユーザーとの共同研究を進める中で「使えます」と「使います」との違いを知ることになったという。
入社15年目には食品事業部に移動し、ここでは主に食品添加物の開発を担当されたが、洗剤用としての需要を見込みシュガーエステル(SE)の大プラントを建設した。しかしこれが低操業率で再び大赤字を出すこととなった。当然事業自体の存続が問われたが、起死回生の新規用途を発見したことにより窮地を脱したばかりでなく、SEは優等生事業に生長した。SEは缶コーヒーの味の悪化の原因となる耐熱性芽胞菌の増殖を防ぎ、味の悪化を防いだのである。この技術を特許出願しなかったことは失策であったが、特許がなかったために逆に良く売れたようだ。特許で縛られないことがユーザーの「使います」意識を誘導した好例であろう。また、当時は未開拓だった豆乳事業を立ち上げ、その後の豆乳ブームにより事業が急拡大し、エリスリトールの事業化などにも成功したが、どちらもブームが去ると撤退を余技なくされたことで、食品事業の難しさを痛感されたようだ。
1990年代になると精密化学品事業部長に就任されたが、与えられた仕事は赤字続きの農薬事業からの撤退いう常務会決定を実行することであった。しかし、部下が見せた情熱と可能性を信じて常務会を説得しこの決定を撤回してもらった。この頃京大・深海先生との出会いもあって、殺ダニ剤の開発に成功して黒字化を達成できた。会社の存続を左右する重要な決定がなされるのが常務会や経営戦略会議であるが、大きな虚しさを感じた出来事だったようだ。この点に関してはフロアからも同様な経験がいくつか紹介され、会社経営者や幹部がGO/NO-GOを決断するうえでの「目利き力」が話題となった。
常務取締役・坂出事業所長時代にはコークス製造の合理化を進め、炭素繊維事業の増強やLi電池負極材の工場建設により大きな業績を上げ、この経験は「男冥利に尽きる」思いだったと回顧された。
その後日本合成化学専務取締役・研究所長として転出し、副社長を経て1999年同社社長に就任。4年間に亘って経営全般を見ることになったが、これまでの経験を踏まえて、合理化による経営改善と新規事業への挑戦を最大の目標として会社の成長に努められた。
このように、下坂先生は逆境にあっても、それを乗り越えて楽しさに変えてしまうほどの情熱的で化学大好きな人間であられたことが窺える内容のお話だった。企業人として大いに見習うべきであろう。
関西地区世話人:後藤達乎、松本和男、水野一彦、目黒寛司、奥 彬。
第26回報告記(文責・目黒寛司)
ゆうごう会とは
本会シニア世代個人会員を対象にした懇話会で、「少し学び(知る)、知的に(遊ぶ)、それを心でつなぎ(和の心)、誰でも気楽に参加し、楽しめる会」を趣旨とし、会の名称も、有合協と和の精神(融合)を意味する「ゆうごう会」と命名したものです。
お問い合わせ
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台1-5 化学会館
公益社団法人有機合成化学協会「ゆうごう会」係
(電話 03-3292-7621)(FAX 03-3292-7622)
e-mail : syn.org.chemtokyo.email.ne.jp